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About
​演劇祭をしる

うごめく、こじあけ。

全国のどこにもない、前代未聞の寄生型演劇祭。
ここから、ありのままの私たちが立ち上がります。
​豊岡演劇祭を異化するためのもう一つの演劇祭。
力強く、対置します。

​めっせーじ

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フェスティバルディレクター

平田オリーブ

現代日本において演劇祭や芸術祭を開催する意義として、まず第一にあげられるのが地方創生策です。芸術の魅力で街の外の人を呼び込んで観光資源としたり、まちづくり政策の一環としたり、まちの誇りにしていったり、という地方創生と結びつく芸術祭が近年増加しています。

 豊岡演劇祭も例外ではなく、豊岡の地方創生策としてコウノトリの野生復帰に続いて、「深さをもった演劇のまちづくり」が進められる一環として、日本最大規模のフリンジをもった、市内周遊型の演劇祭、豊岡演劇祭が構想されました。その目標は大きく、ディレクターの平田オリザ氏は「5年でアジア最大規模にする」と掲げています。新型コロナウイルスの影響で中止になった2021年を乗り越え、2022年第2回豊岡演劇祭は一部演目の中止はあったものの、規模を縮小することなく無事開催されました。結果、100を超えるフリンジを呼び込み、日本最大規模の演劇祭となりました。これだけの事業が現代の日本で実現されたことは驚くべきことだと思います。その裏では多くの舞台関係者、地域住民の絶え間ない努力があったことは間違いないでしょう。関係者の皆様には多大な敬意を払いたいと思います。

 

ただ、課題ももちろんありました。それは、演劇に対して関心のない市民の方々とどう向き合っていくのかという問題です。演劇に親しんでこなかった人にとって、演劇の公演はよくわからないものであり、自分たちの生活とは関係のないものとしてしか捉えられないケースも多くあります。また、文化経済の都市部への一極集中の影響か、地方にいて洗練された文化を知らない自分たちが悪い、という自己評価をしてしまう感想も聞こえてきています。

 これを解決するためには、持続的な開催による演劇への理解を得ていく努力が必要に感じますが、、、そこで私達は疑問をいだきました。芸術や演劇というふわふわしたとらえどころのないものを中心に据えるのではなく、もっと、ここにいる人達の生活に、アーティストが近づいてみたらいいだけの話なのではないか?

 そもそも演劇や芸術というものは文化的な洗練の必要から、どこにも地に足のつかない誰にとってどう必要なのかよくわからないものになってしまいました。コロナ禍において多くの演劇関係者が、自分たちの社会にとっての存在意義を考え直さざるを得なくなったのが記憶に新しいですが、あのときの反省はもうすでに忘れられかけているように思います。今、本当にここに生きる人にとって必要なものはなにか?改めて考えなくてはいけないと、強く思います。

 この、ここに生きる人達にとっての必要性という観点から観て、豊岡演劇祭、ひいては地方演劇祭の本質的な価値を引き出すために、私達は豊岡演劇祭を演じることにしました。近似的な2つの演劇祭を対置することで私達には何が必要だったのだろう、ということが見えてくるかもしれないと考えたからです。豊岡演劇祭という皮をかぶり、演じることによって現在行われている演劇祭、また日本の舞台芸術の文脈を引っ掻き回し、日本の舞台芸術の生態系の別のあり方を探ってみたいとも思います。

 しかしこれは言うほど簡単なものではありません。なぜならただ秩序を壊すだけなら物理的な力をかければいいだけでいいので、やろうと思えば簡単ですが面白くありません。それはただのテロです。必要なのは楽しく面白く乗っかれる代替案を提案し、現実を変えていくことでしょう。さて、信じられるイデオロギーもなく、戦争を経験せず、制度に飼いならされたわたしたちにはどんな代替案があるでしょうか。 

 

 学生運動の記憶も、前衛の記憶もないわたしたちはしかし大変動の時代に生き、これから先確かな未来などあるのかすら不透明なのに、なにかを自分で切り開いてサバイバルする能力は長年の義務教育と受験システムの成果で奪われてしまいました。時代の状況は急速に変わります。OpenAIによって開発されたChatGPTは人が生きる意味を根本から覆してしまうかもしれない発明と認識されています。巨大地震はいつ起こるかわかりません。ウクライナとロシアの戦争は終わらず、北朝鮮や中国とアメリカの対立によって日本も戦争をするかもしれません。冷静に考えるほどに状況は深刻で、何が自分にとって最適な生き方なのか、一人ひとりがアイデアを創造していかなければならないようなサバイバルの時代な気がします。

しかし、そんな気力がわたしたちにあるのかと言われたら、ない。


 

 そんな世代に生きているわたしたちが提案してみるのはある意味わたしたちらしい、いい加減なアイデアです。それは、「とりあえず演じてみよう!」です。


 

 わたしたちはいつも、「あのときこうしていれば」とか、「自分が全く別の存在だったら」とか思いながら生きていると思います。それがきっと演じるという行為を人に促すのだろうと思います。神降ろしもリアリズム演技もマウンティングも、根底で繋がっているんじゃないでしょうか?

 豊岡演劇祭にも、行われなかったいくつものパラレルがあるはずです。演じることはいくつもの生きられるはずだったパラレルな世界を呼び込み、世界は一つではない(複数である)ことを知っていく行為かもしれません。すでに記述された確かなものとしての戯曲を繰り返し生きる中で、予想外の何かを呼び寄せてしまったり、それにみんなで驚いたり、その中で、そのまんまの姿をしたわたしとあなたが他者のままで面と向き合い、出会うことのできる瞬間があると思います。演じるという行為はそんな、ありのままの出会いを促す可能性を秘めているように思います。

 また、それは観光にも似ているかもしれません。もしこんな土地に生まれていたら、もし全く違う文化圏で生活していたら、とわたしたちは考えながら観光をします。それがただの正確さにかけた観光客の夢であるといわれても、観光するわたしたちの心に浮かんだ景色は事実でしかないのです。

 そこで、ある実験を提案しようと思います。

 

何か大きなものの権力に頼り切ることなく、むしろしたたかにこれまで人類が培ってきたものたちを演じ、

観光して、限りなく複数である人や土地やジャンルの壁をゆうゆうと超えてみたい。

そうしている間に見出された「わたしたち」が野生の生命として、

いままで誰も知らなかった「繋がり」と「循環」を見つけ出していくことで、

この不確かな世界をそれぞれのやり方でサバイバルしていけるのではないだろうか?

 

という仮説を立てたいと思います。まとめてしまうと、お互いが違うということをリスペクトしながらお互いの立場に共感できる集まりをつくって、したたかに生きてみよう、という政治的な、もう少し身近に言えばまちづくりの実験になります。

 

この実験を仮に「トニョーカ演劇祭」とします。わたしたちと試してみませんか?

 

 もちろんこのアイデアは仮説であり、これは実験です。演じてみて、あるいは観光してみて意外にだめだったらみんなで笑いましょう。改善点が見つかれば一緒に考えてみてください。他にいい代替案が見つかればそっちを探っていくのもありです。そしてこのアイデアの外側にある膨大な可能性を見に行きましょう。

 

 わたしたちはこの「トニョーカ演劇祭」に参加してくれる方を探しています。発表をする人も、ただ観るだけの人も、話し合いなどに参加したいという人も、歓迎します。

 また、資金的な面は完全にインディペンデントであり、資金は自己調達していかなくてはなりません。そのため、参加される方に金銭的な援助をすることはできないということを予めご了承ください。ご寄付をしてくださるという方がいたらぜひお声掛けください。


 

長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。

​トニョーカ演劇祭公式ロゴについて

​- トニョーカの風になびく髪の毛

​- トニョーカの地に響く言葉と唄

​- トニョーカの風景と人を捉える眼

​- トニョーカの人と繋がるための手

​- トニョーカの鼻歌と悲鳴を聴く耳

​- トニョーカの大地を感じる足

​トニョーカ演劇祭実行委員会

​構成

​トニョーカ市民

​平田オリーブ

​事務局

​トニョーカ演劇祭実行委員会事務局

​(集団ばく、林充希)

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